カルチュラルスタディーズⅡ

(1)「メディアが作り上げる現実」の具体的な例を上げて解説しなさい(2000字)
(2)そのことが私たちに及ぼす深い影響&問題について述べてください(2000字)
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(1)メディアが作り上げる現実
 メディアが作り上げる現実とは、自己と他者を大きく切り離す現実である。この場合の自己とはメディアを受け取る聴衆であり、他者とはそれらの“自己”とは区別される存在である。この構図はどのように作られていくのかということだが、やり方の1つとして2項対立というものがある。
メディアは2項対立の構図を作り、2つの主体のどちらかによりそう形で現実を表すことが多い。例えば、「北朝鮮に対峙する私たちは」や「官僚に対して日本国民は」のような表しかたがそれに含まれる。前者の場合の自己は“私たち”で他者は“北朝鮮”、後者の場合は自己が“日本国民”であり、他者が“官僚”である。その際、メディアが映し出すのは他者の危険な姿であり、我々はその映し出しているフィルターを通して現実を見る。結果として、メディアが作り出す現実を私たちは現実として認識する。そして、そこで映し出されている構図の一方に聴衆が自己の立ち位置を置く手助けを行っている。例えば、テレビ画面でキャスターは聴衆の側にいるような発言(我々、日本人、国民、一般市民etc)を行い、対立されるとする側には私たちは正対する。インタビューであっても、対立するとされる側へのインタビューではカメラに相手は正対し、インタビュアーの視点が我々と同じ視点となる。他のスポーツなどのインタビューではインタビュアーとインタビューされる人が大きく2人として写され、融和的な印象を与えるのとは大きく異なる。このような表象はたまたま行われるものではない。メディアによって生み出される全てのものには主観が存在し、それが意識的であれ、無意識であれ、ある程度の意図をもって生み出されている。ニュースなどは中立である。との主張を行う場合もあるが、中立という概念を示す場合には何かしらの中間点としての中立とされる場合が多いのだが、その基準点を誰かしらが決めなければいけない。AとBの中間が中立である。との主張はその基準点がCであるということを否定できないことによって成り立たない。また、カメラワークにおいて、同じものを真ん中に写すにしても、その対象のみを写すのとその背景も含めて写す場合では、大きく異なる上、カメラワークにしても、全く動かさないケースと横移動で移すケース、縦に動くケースなどでは大きく印象が異なり、カメラマンが無意識に持っている主観が反映された映像になるのである。その撮影する側はそれまで様々なメディアによって生産された“自己”のフィルターを通して撮影することによって、メディアがまた、聴衆をメディアが表す“自己”として生産していくのである。また、その“自己”を聴衆に意識させるために映像だけでなく、キャスターなどの使用する言葉もその一翼を担っている。日本人、国民、一般市民のような単語がそれにあたるのだが、そのような単語をメディアは無意識に多用することによって、聴衆にも無意識にそれが意識されるようになり、対象の単語を使用する際の文脈から聴衆はその単語から付随するイメージを作り上げ、その単語のイメージとするようになり、それはメディアが意図する“自己”としての単語の意味となっていくのである。それによって“自己”をメディアがほぼ意図するように(多少のズレや、それに気づき、その“自己”から脱却する人も一部いるが)多くの聴衆に無意識に意識する手助けをメディアは行う。
また、自己と他者の切り離しは上のように自己と他者を対立する形で表すのみで行われるわけではない。自己と他者の間の距離を大きく広げることによってもその目的は果たされる。その例として戦争報道や歴史や背景を排除した報道などが例に挙げられる。まず、湾岸戦争がNintendo Warと呼ばれたように、戦争などをあたかもゲームのように表し、そこで実際に人が死んでいるということを想像することが難しくなるような手法がある。また、戦争の映像で死体などの悲惨な映像を排除し、視聴者への配慮という口実でモザイクをかける。ことが実際に遠い場所で起こっていることに対して緊張感を軽減し、放映されている映画とほぼ変わらない程度の認識のみしか抱かなくなる。また、歴史や背景を排除した報道では、沖縄の基地問題が挙げられる。沖縄の基地問題だか、現在、どのように普天間の基地を“移設”するのか。ということを主眼においてメディアは伝えているのだが、ほぼ新たな基地を作成するのにも関わらず“移設”とするのはその移設という単語の持つ意味だけでこの問題を考察されるための補助である。沖縄に基地がなぜ存在してきたのか。などの問題は聴衆にとって身近な問題であるはずなのに、一部の部分のみを遠い問題として取り上げることによって、聴衆はその問題から遠い存在として自己を置くのである。
 このようにメディアは自己と他者や問題を大きく異なり、遠く離れたものとして現実を描くのである。(1992字) 
(2)私たちに及ぼす深い影響&問題
 このような自己と他者を大きく異なり、遠く離れたものとしてメディアが扱うことによって、私たちは思考停止状態に陥り、2つの大きな影響を生むこととなる。それは、“自己”への過剰な執着と“他者”への大きな差別である。
 まず、前提とする思考停止状態だが、我々は物事に対して自己の見地から分析し、自己の行動を形成する主体である。しかしながら、メディアによって“自己”が固定化されることによって、メディアによって表される“自己”が我々にとっての自己となり、メディアが物事を考える枠組みの中で私たちは物事を考えるように身体化されてしまう。それによって、本当に個々で物事を考えることがなくなり、一応、思考しているとしても本質的には思考停止状態に陥ってしまうのである。そして、メディアの物事を考える枠組みである自己と他者の区別に沿って思考するようになるのである。
 メディアの枠組みに沿って行われる思考の1つとして“自己”への異常なる執着が考えられる。これはメディアが“自己”という主体を様々な言葉や表象によって強調し、聴衆へ“自己”を深く意識させることでその“自己”が所属しているとされる集団からはみ出したくないという気持ちがとてつもなく大きくなることである。メディアによって、その集団にとっての規範が示される。例えば、「日本人は~すべきだ」「国民であるならば~」「我々にとってこの問題は~」のようなものがそれに当てはまる。純粋な自分自身は少しでもそれに疑問を発したとしてもその集団としての規範を破りたくないという気持ちが働きその規範に従わざるを得ない状態になってしまうのである。これは別の言葉では個の喪失と集団の形成とも言える。現実として、人間は1人では不安によって生きられないのだが、それをうまく利用され、大きな意味でそれぞれが集団としてゆるやかにコントロールされてしまうことが、“自己”への異常な執着として起こるのである。
 また、“他者”への大きな差別であるが、これもメディアによって「オウムは危ない」、「イスラム教はテロを生む」、「北朝鮮は悪魔のような国家だ」のような表象がなされることも原因の1つではあるが、もっとも大きなものは上記でも述べた他者との大きな距離というものである。つまり、距離が大きい場合、その対象に対する思考として無関心と恐怖というものが考えられる。無関心とはそれらの対象が自分に関係ないものとして考える場合に起こるのだが、恐怖というのは自分にそれらの対象が関係あるものとして認識した場合に発生する。それは、それらの対象を自分とは異なるものとして差別したことによって、自分には理解できないものとして認識し、理解できないものに対する恐怖が生まれるのである。実際は同じ人間であり、我々と同じように家族を持ち、なんらかの考え方を持っているにもかかわらず、人間としてみなさないとまで考えてしまう場合もあるのである。ブッシュ前アメリカ大統領がイラクなどのいくつかの国を「悪の枢軸」と示したこともそれの例であると考えられる。つまり、他者を差別することによって恐怖を形成し、ある程度の範囲でそれらに対する攻撃を望む意識を形成する影響がある。
上記の2つは分けて記したのだが、つながっているということがわかるだろう。何かしらをメディアの解釈によって2つに分けた場合、我々が“自己”に執着すればするほど、“他者”の脅威は大きくなっていくのである。なぜなら、“自己”へ安心を求めるため、“他者”になることを恐れ、“他者”へ恐怖を抱くのである。その恐怖から逃れるために“自己”へ執着し、“他者”へ恐怖を抱くという循環構造になっているのである。そして、メディアの意図するようにある対象への恐怖を増大していくのである。
 その最たる例として日本におけるオウム真理教に対する感情があげられる。サリン事件が発生し、オウム真理教は訳がわからない“他者”として恐怖を抱く対象になっていった。その恐怖をあおったのがメディアである。毎日のように特集を組み、その内容は決してオウムの実生活を追ったようなものではなく、“自己”である私たち“国民”とオウム真理教の人々はどのように違うのか。ということを示したものである。そして、自分たちと異なる存在であるオウムに対して各地域ではただ過ごしているだけで宗教の自由や居住の自由を無視して、オウム真理教に対して退去を求めるような過激な思考が形成された。これが恐怖によって生まれる力の例である。
 このようにメディアが“自己”と“他者”を区別することによって発生する“執着”と“恐怖”によって個々が疑問を発さない思考停止状態におちいり、メディアとその背後に存在する権力が望む動きに聴衆がゆるやかに枠組みの中に閉じ込められていくのである。これがメディアによって私たちに及ぼす影響であると同時に問題でもある。(1996字)

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小檜山 歩

コンサルタント日系総合コンサルティングファーム
渋谷のITベンチャー→日系人事コンサル。会社ではコンサルしながらCSRの活動もしてます。いろいろ無秩序につぶやきます。2017年5月から1年間タイでトレーニーとして働いてました。今は帰ってきて日本で働いてます。
小檜山 歩
渋谷のITベンチャー→日系人事コンサル。会社ではコンサルしながらCSRの活動もしてます。いろいろ無秩序につぶやきます。2017年5月から1年間タイでトレーニーとして働いてました。今は帰ってきて日本で働いてます。