社会は思っているよりも豊かで、人は思っているよりもかなり豊かだ。 『誰が誰に何を言ってるの?』(森達也)【本】

 

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なんだか、きな臭い。

誰かが今の日本国内の雰囲気についてこう言っていた。人は理由もなく、内と外を分け、外にいる(とみなした)人たちに対して攻撃的になる。その力はどこから生まれているのか。

森達也の本を読むと、いつも悲しい気持ちになり、少しの優しさが生まれる。疑いもなく、当たり前となっていることに対して疑問を投げかけてくれる。その疑問は今の社会を悲しく思ってしまうんだけど、まだ、やっていけるという気持ちと、森達也の根底に流れているであろう優しさに共感して、共鳴するのだろう。

なんか、社会全体が攻撃的で、周りに合わせないと爪弾きにされてしまいそうな恐怖を感じている人、そんな社会に違和感を感じている人にはぜひ、読んで欲しい1冊。

この本の元ネタが書かれたのは2006年から2007年。第一次安倍内閣の頃で、少しきな臭かった頃。でも、今は更にきな臭くなっているからこそ、読みごたえがある。

社会を信じてみたいけど、自信がない人も読んで欲しい。なんだか、少し優しくなれるから。

【引用】

井戸の中に暮らす蛙にとって世界は井戸の中だ。外の世界は想像できない。登下校の際に「おい、小池!」の掲示を眺めながら、悪いことをした奴は呼び捨てにしていいのだろ子どもたちは学ぶ。テレビのニュースを見ながら、悪いことをした人は「男性」や「女性」ではなく、「男」や「女」で十分なのだと学ぶ(とてもいやな日本語たと僕は思う)。幼い意識に芽生えた危機意識は集団における異物排除を整合化し、やがて極悪人には生きる価値などないとの大前提に肥大する
…大仰な論理展開だと思われるだろうか。
でもやっぱり思う。監視カメラに囲まれ、GPS機能グッズを持たされて寄り道もできず、「犯罪者はあなたのすぐそばにいる!」とか「テロ警戒中」とか「おい、小池!」のポスターなどを眺めながら成長する子どもたちは、どんな大人になるのだろうかと。

アメリカ出身でヨーロッパを中心に長く世界を渡り歩きながら写真を撮っている人は、「初めて日本に来てテレビのニュースを見たとき、日本中で人が殺しあっているようだと思って驚いたよ」と言ってから、さらにこう続けた。
「殺人事件はスキャンダラスで刺激的だから、視聴率や部数は上がるかもしれない。でも、だからといって事件の報道ばかりでは、大切なニュースが消えてしまう。なぜならテレビのニュースには時間の制限がある。新聞紙面だってもちろん有限だ。つまり何かをニュースにするということは、何かがニュースから削られるということでもある。この国の報道を見ていると、たとえばアフガンの復興はどうなったのか、スーダンの飢饉は解決されたのか、国連では今どのようなモンダイが討議されているのか、そんな要素がほとんどない。あるのはただ、誰かが誰かに殺されたとか刺されたとか、そんな報道ばかりだ。妻が保険金目当てに夫を殺害した。べつに珍しくないニュースだ。ところがこの国の報道は、妻の男性関係やら夫の会社での評判やら、そんなことまでも、実にたっぷりと時間をかけて報道する」

戦後の日本において殺人事件の認知件数がいちばん多かったのは、1954年の3081件だ。つまり映画「ALWAYS三丁目の夕日」の時代設定から少し前、安倍晋三元首相が「美しい時代」と形容した時代でもある。

「日米同盟」。日本とアメリカのあいだで結ばれた安全保障の取り決めは「日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)」だ。英語では”Treaty of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan”使われている言葉は「Treaty(条約)」であり、「Alliance(同盟)」ではない。省略するなら「日米条約」だ。

教えている大学のゼミに韓国からの留学生がいる。最初の自己紹介の時、「日本と韓国のメディアで最も大きく違うと感じたことは何ですか」との僕の質問に、彼女はこのように即答した。
「来日してすぐに、事件の容疑者の顔や名前がメディアで当たり前のように提示されていることに驚きました」
「つまり、韓国では容疑者の顔や名前は公開しないということですか」
「そうです」
「理由はわかりますか」
「まだ有罪とは確定していないからです」

「日本では、駅やデパートなど人が多く集まる場所でいろいろなアナウンスが流れているけれど、あれは何と言っているんだ?」
自主映画を上映するために来日したフランスの映画監督から、そう訊かれたことがある。
「アナウンス?」
「同じことをくりかえしている。だいたい女性の声だ」
「ああ。白線の内側に下がりなさいとか、エスカレーターの手すりに掴まりなさいとか言っているんだよ」
僕の説明を2度訊き返した彼は、無言で肩をすくめた。
「何か言いたそうだね」
「別に。優しい国だ」
「フランスにはこんなアナウンスはないのかな」
「もしも街角でそんなアナウンスが何度も流れたら、ここは幼稚園じゃないと怒る人がいるかもしれないね」

死刑制度存続論者は「死をもって償え」と言う。廃止論者は「生かして償わせろ」と言う。ならば、僕は言う。どちらも間違いだ。命は戻らない。生命の対価としての償いなどありえない。だから人は人を殺してはいけない。殺させてはいけない。どんな理由があっても。どんな人であろうとも。

CrowdsはMadnessに陥りやすい。集団や組織に帰属した個は「私」や「僕」などの一人称単数の主語を喪失し、「我々」とか「会社」とか「党」とか「国家」とか「みんな」を主語にするからだ。その結果として述語が勇ましくなる。ひとりだと言えないことも平気で言えるようになる。たとえば最近メディアで頻発される「許せない:とか「成敗せよ」などは、こんな述語の典型だ。
こうして集団は暴走する。「みんな」を主語にしながら。そして失敗する。「みんな」を主語にするから。群れる生きものである人類全般の携行だけど、特に平均値を気にして同調圧力に弱く、場の空気に合わせてしまうことが多い日本人にとって、多数決というプロセスによって担保されるデモクラシーという制度は、実のところ諸刃の剣でもある。敬愛する竹中労(ルポライター・評論家)の言葉を引用する。
無力だから群れるのではない。群れるから無力なのだ。

「近年の戦争の多くが国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実であり、正当防衛や国家の防衛権による戦争を認めるということは、戦争を誘発する有害な考えである」(吉田茂)

自衛の意識が最も燃費のいい戦争の燃料であることを、世界は20世紀以降の戦争から知ったはずだ。

世界貿易センターに激突した旅客機の操縦桿を握りしめていたテロリストと、爆薬を抱えながらアメリカの戦艦に突撃していった特攻隊員とのあいだにもし違いがあるとすれば、「アッラーフは偉大なり」と「靖国で会おう」の違いくらいだ。確かにフレーズは違うけれど、価値ある自分の死は来世で必ず祝福されるとの考えは共通している。愛するものを守るとの大義で正義に燃えながら、同時に脅え、震え、それでも生命を捨てる覚悟をしたという意味では、位相はまったく変わらない。

過剰なセキュリティは不安や恐怖を軽減しない。むしろ増幅する。その気血として仮想敵が生まれ、「やらねばやられる」との大義になる。こうして「愛する人を守るため」の防衛戦争が始まる。

【手に入れたきっかけ】

森達也のファンとして発売当初に即購入

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小檜山 歩

コンサルタント日系総合コンサルティングファーム
渋谷のITベンチャー→日系人事コンサル。会社ではコンサルしながらCSRの活動もしてます。いろいろ無秩序につぶやきます。2017年5月から1年間タイでトレーニーとして働いてました。今は帰ってきて日本で働いてます。
小檜山 歩
渋谷のITベンチャー→日系人事コンサル。会社ではコンサルしながらCSRの活動もしてます。いろいろ無秩序につぶやきます。2017年5月から1年間タイでトレーニーとして働いてました。今は帰ってきて日本で働いてます。